非線形の日常と不透明な未来

 ブランドをしたい。来年からしたい。いま学校にかよって盲目的に課題をこなすことは確実に未来へと繋がってはいるのだろうけれど、それは線型的ではないよねというお話。

 

住む世界が違う人と交流するということ

 まぁ、正確には住んでいた世界ではあるものの、日本の半数が思い描く普通の、つまりは大学を出てなんとなく就職して家庭を持つルートから、きっとそういう未来を思い描いて来なかった側の人々と関わるようになって半年近くがたつ。前の記事にも軽く書いたような気がするけれど、服飾の、それも文化服装学院なんかに高校を卒業してすぐ来るような人間は、きっとやる気に道溢れていてやりたいことや覚悟が決まっているような人間ばかりで、僕なんて全くついていけないのだろうと思っていたのだけれど、存外そんなことはなかったというのが現時点での所感であるので、考えたことを少しまとめたいと思う。

 大学への進学率は大体50%というのをどこかで聞いたことがあるのだけれど、いままで僕はその半分側、もしくはそれに準ずる高専で学ぶ人々としか関わってこなかった。厳密にはしかということはないのだろうけど、その人の人間性が見えるほど深く関わることはなかったと思う。だからそこの間に横たわる常識の差異を知らなかったのだ。

 

 好きなことを勉強しているはずなのに、ビックリするほど課題をやらなかったり作品を真面目に作らなかったりする同級生の存在に驚かされた。そのくせ口だけは一丁前にでかいので、見ていてモヤモヤするのだが、結構な人数課題を出さなくても平気な顔をしていられる。何でだろうなと思ったときに、彼らはちゃんと勉強をしなくても当たり前に生きていける常識のなかで育ってきたからなのかなとふと思った。

 僕や、去年まで関わってきた人々はきっとそれまで大学に行くことが当たり前の環境で育ってきたので、為すべきことを為さなければ、落ちこぼれの烙印をおされて、ドロップアウトせざるを得なかったんだろうけど、高校を卒業するのがゴールの環境であれば、きっと課題もテストもギリギリでよかったんだろう。善悪ではなく常識の違いとでも言おうか、デッドラインの認識に大きな差違を感じる。

 まぁここまでかいて、過去にも危機感が薄い人は一定数いたことを思い出して、よくわからなくなってきたけど、少なくともここまでの違和感をおぼえることは無かったように思うのでこのまま続ける。

 

でもきっと未来は不透明だ

 そこに気がつかないまま、危機感を覚えないまま、色々な経歴を持つ人々が一緒くたにされる専門学校のような場所にいると、優劣の問題ではなく、やらなきゃと思う人はそうでない人に疑問や苛立ちを覚えるだろうし、やらない人はそうでない人に似たような感情を覚えるのだろう。

 けれども、専門学校というのは所属していれば自動的に望むような未来につれていってくれるエスカレーターではなく、ただやるべきことを与えてくれるだけの修練場のようなものだと言うことを再認識した。

 ただ与えられることのみをこなして行けば線形的に理想の未来にたどり着けるのではなく、自らの目指す地点をしっかりと認識したうえで、そこに向かって行かなくては未来はいつまでたっても不透明なままなのだ。