工学の徒を辞して服飾の道へ至る【前編】

 文化服装学院に無事合格し、七年間学び続けた機械工学という分野を捨て、服飾の道に進むことが確定したので、一応節目として僕がそこに至るまでの過程を記して置こうかと思う。流石に七年間の記憶を振り返るとなると、正確には思い出せないことも多々あると思うが、大筋を違えることはないだろう。

 

何故高専へ進学したのか

 まぁ服飾の道へ進むきっかけだけを書いてもいいのだが、そもそも僕は機械工学を学びたかった訳ではないという蟠りを五年間かかえていたし、それを外して語ってしまっては嘘になるのでそもそもの始まり、中学三年生から始めようと思う。

 僕の父親は転勤が多い仕事をしていたので、小学生になるまでに四回ほど引っ越しを経験していた。小さいうちは大して自我もないので気にならなかったし、そもそもほかの選択肢がなかったが、ちょうど僕が高校に上がるタイミングで五回目の引っ越しが決まった。当時は奈良に住んでいたのだが、家族全員で福岡に引っ越すことになるらしい。中学生にもなれば、大事な友達の一人や二人いたし、僕は奈良を離れたくなかった。大人の視点から見れば我が儘に見えただろうが、その頃の友達とは今でも仲がいいので、やはり僕の選択は間違っていなかったように思う。

 閑話休題

 まぁ、そこで僕が目をつけたのが高専だったというわけだ。正直内申が必要なく、寮がある学校だったからというのが一番の理由だ。勿論ものづくりや理系科目は好きだったし、手先は器用だったので興味が全くなかった訳ではない。しかし、当時の僕はパソコンが好きだったので本当は情報工学科に入りたかったのだ。機械工学科は第三志望で滑り止め程度の気持ちで書いて願書を出した。

 ただまぁ、勉強を全くといって良いほどしない子供だったので、二週間前から勉強を始め、すでに推薦入試が終わって暇な優秀な友人たちの手を借りて何とか引っ掛かったのが機械工学科だった。今となっては後悔はないし、多分当時も奈良に残れれば満足だったので、普通に喜んでいたと思う。とは言え、そこで情報工学科に進んでいれば、また違った未来だったのだろう。

 高専生活は概ね楽しかったし、授業はともかく卒業研究は面白かったので高専に行ったことを後悔はしていない。

 

自我の確立とそれに伴う痛み

 また別の話になってしまうので詳細は省くが、三年生になるかならないかの頃にちょっとしたパラダイムシフトがあった。それ以前の僕がどういう人間だったのか一言で言うのは難しいが、特に抜きん出たところもない人間だったと思う。自分に自信がなかった……のかはわからないが、ここが優れてるとは即答できなかったと思う。

 三年生に成り立ての頃はボコボコに凹んでいた時期で、あまり思いだしたくはないが、一番僕が脆かった時期だった。死のうかとも思ったが、そんな勇気もないし、変に生真面目なので不登校になる訳にもいかず、ただ耐えるしかなかった。Twitterに病んだツイートをしすぎてポエマー等と言われていた。どうやって立ち直ったかは覚えていないが、多分時間と友人のお陰だと思う。当時仲良くしてくれた寮の友人たちには感謝している。

 立ち直って、時間的な余裕が出来ると同時期に僕はバンドをやろうと思った。確かUVERworldのライブ映像を見たのがきっかけだ。僕らの軽音部はまずバンドメンバーを集めないと入れて貰えなかったが、クラスメイトが(彼曰く誘ってオーラ満開だった)僕を誘ってくれて、紆余曲折を得て無事に入部することが出来た。高専でのバンド活動は楽しかったし、そこでも掛け替えのない友人を手にいれることが出来た。

 また、多分その辺りから使う宛のなかったバイト代を全額服につぎ込むようになった。月一で友達と大阪まで出かけていっては、なけなしのバイト代で服を買っていた。最初はお兄系と言われてるジャンルだったが、ミュージシャンの格好や、友達の薦めでモード系を知ってからはそちらに一直線だった。インタビューを読むのが好きで、デザイナーやアーティストのインタビューを読んでばかりいた。

 今思えば、一度完全にメンタルブレイクしたあとの僕は空っぽだったのだろう。なにも入っていない伽藍堂に音楽やファッションの知識を取り入れることで、自己を修復し今の僕の原型とも言える自我が出来上がって行った。

 

第二の分岐点

 さて、そんなこんなで学生生活を送りながら、五年生までなんとか無事に進級した僕に、五年ぶりの試練が現れた。そう、編入試験である。ここで機械工学科が第三志望だったことが響いてくる。流石に五年もやっていれば多少は愛着があったし、実際向いてはいたと思う。卒業研究はデザイン系の研究室に所属し、3Dモデルを使ったりLeap motion を使ったりして楽しくやっていたが、機械工学系で進学することに大してあまり興味が持てなかったのだ。

 勿論就職するという道もあったのだが、設計ならともかくライン工場勤務になるのは嫌だったので、あまりそのどちらかでは迷わなかったように思う。自分で言うのもなんだが、座学はともかく、実技はトップクラスに出来が良かったので、実際職人とかなら向いていたような気もするが。

 さて、どうしようと思ったときに音楽関係の研究が出来る大学はないだろうかと思い立った。すると数は少ないが編入制度があり、しかもかなり本格的に音響工学をやっているところがあるではないか。

 僕は、九州大学芸術工学部音響設計学科というところを第一志望に定めた。勿論あわよくばバンドも続けたいと思っていた。

 しかしまぁ、これが見事に滑った。一番最初に滑り止めで受けた大分大学の合格があって安心してしまったからなのか、単純に勉強しなかったのか(おそらく後者)、九州大学は愚か、舐めてかかりすぎて長岡技術科学大学もダメだった。落ちたものは仕方ないので、大分大学に進学することになった。こちらでも良い出会いはたくさんあったので、いったい何が正解なのかはよくわからないけれど。

 

 さて思いのままに書き連ねてきたら思ったより長くなってしまったので、前編後編に分けようかと思う。編入後の話は後編で。