僕らは人間の両面性と云う虚像を見ている

 好きな人間がいる。嫌いな人間がいる。

 好きな人間の嫌いなところがある。

 嫌いな人間の好きなところがある。

 僕らは「あいつは裏表があるよね」等と宣って、人の性格を善性と悪性に二分割しようとするけれど、そもそもすべての人に同じ態度をとるなんて無理な話なので、分割するなら某作品のように十七分割は最低でもすべきだし、できないなら分割すべきではない。僕らに他人を裁定する資格なぞないし、魔眼も持ち合わせていないのだから。

 人間はあくまで一個体の性格を所有しているだけであって、本来そこに裏表はない。大体自分と接しているときの性格を表とするのはエゴイズムの塊ではないのか。彼、若しくは彼女が陰で誰かの悪口を言っているなら、そこまで含めてそいつの性格だし人間性だ。ただ、全部含めて愛してやれとは言わない。今日はそういう話。

 

 こいつ好きだなーって思っていた人間が僕の定めた基準のなかでカッコ悪いことをしたり、ルールに反することをしたときに、厭だなぁと思う。そこまで含めて好きだと言えるほどの器は持ち合わせていないので、いっそすべて嫌いになってしまおうかとおもうけど、それは流石に極端すぎる。

 逆に嫌いだなと思っていた人から、優しくされたりすると、困ってしまう。おいおいやめろよ。という気持ちになる。好きなカテゴリーの人間は悪性を有して欲しくないし、嫌いなカテゴリーの人間に善性があるのを知りたくなかった。

 でもそれもすべて僕の中の裁定基準という色眼鏡を通して見ていたにすぎず、僕が嫌いな奴も最初から優しかったんだろうし、僕が好きな奴も最初からクズだったんだろう。彼らも僕とは違った行動原理に従っているに過ぎず、二面性など最初から無かったのだ。

 こういう勝手に期待して勝手に失望するというのは中々に質が悪い上に、当人からしたら「は? 知らんわ」意外の感想を持ちようがないだろうから、そうするべきではないのだが、なかなかそう上手くは行かない。

 善人なら善人の、悪人なら悪人の、ロールプレイを期待してしまう。だから僕らはそこに二面性という虚像を幻視する。そうして都合のいい部分だけを好きなままでいて、他の部分は切り捨てる。その切り捨てた部分が垣間見えたときに、あいつ裏表があるよな、という結論に達するのだ。そんなものは存在しないのに。性格なんてものは流動的なので、その場その場でだって変わるし、全部含めて個人だ。

 俺は人間が嫌いだ。