正しさは凶器たりえるのか

 このブログでも度々書いているが、僕は常常正しくありたい、と思っている。それが本当に正しいかどうかは置いておくにして、タバコのポイ捨てをしないだとか、落ちているゴミは拾うだとか、むやみやたらと女の子に手を出さないとかまぁ、そう言う当たり前のようなことに始まり、思ったことをはっきり言うだとか、陰口は叩かない、無理に人に合わせないし付き合わせないなどの思想っぽいことまで、多岐に渡って自分自身の正しさを制定し日々それを遵守しようと努めている。

 だが、それで誰かを傷つけてしまうことはないだろうかとふと考えた。

 

言葉のナイフとかいう狂気

 義務教育をまともに受けてきた人間なら一度は道徳の授業だかなにかで心の傷は治らない。という台詞を聞いたことがあると思う。僕はこの話をされた当時は純真無垢な子供だったので、そうなのか。と思っただけだったし、今も一理あるとは思うが、実際のところ、物理的な外傷の方が何倍も痛い。ただ、そこに至るまでのハードルが暴言の方が低いというだけのことだ。実際に同じ相手から暴言を受けるか暴力を受けるかなら、暴言の方がマシではないか。暴力はおそらく暴言も伴う二重苦だ。そこに発生する裏切られたと言う気持ちは変わらない。まぁ、後遺症の残りやすさで言えば、暴言の方がトラウマとなってしまうことは多いかも知れないので、断定はできないけれど。

 話が逸れたが、僕はこの「言葉のナイフ」の取り扱いにはあまり自信がない。よくヘラヘラしているので勘違いされがちだが、僕はそこまで優しい人間ではないので、他人を傷つけることに対してあまり配慮が出来ない。というよりはしない。傷つこうが傷つけようが、それが間違っているのなら是正したい性分なので言わなくていいことまで言う。別に仲良くない人がそれで傷つこうが僕には関係ないし、仲の良い人との縁がそれで切れるなら、所詮その程度の関係性だったと言うことだ。僕は間違いを許容してまで仲良しごっこをしていたくない。

 ただ、他人には他人なりの正しさがあるのだ。人は人は、俺は俺。という原理を踏み越えてはならない。僕が気に入らないことは、単に僕が気に入らないことというだけでそれ以上でも以下でもないはずなのだ。僕が思う正しさが、他人にとっての正しさだとは限らない。多様性を認めあい、互いを尊重するのが人間の在り方だ。

 しかし我慢ならず明らかに間違っているであろうことを指摘するときに、感情の発露とでも言うべきかこの行動をとる時は、しばしばこの原理を乗り越えてしまう。僕が正しいと、思い込んでしまうのだ。

 

正しさに潜む狂気と凶器

 誰かから、何かを相談されたとする。恋愛でも就職でも人生でもいい。そのときにただ話を聞いてほしい。肯定してほしいだけだ、という人がいる。でも僕は嘘はつきたくないので、思ってもないものをそれは正しいと言い、寄り添うつもりもないのに共感したくないのだ。生きるのが下手だと言えばそれまでだが、今のところそれで困ったことはない。多分そういう人は僕には相談しないからなのかもしれないけれど。でもいつか、それで大事な人を傷つけてしまって、失うときがくるのだろう。それが少し怖い。

 万人にとっての正しさなどないのだと、諦めることは簡単だし、実際存在しないのだろうけれど、僕はもう少し足掻き続けたい。

 正しさという狂気に取りつかれないように気を付けながら。