『個性的』な凡人の君たちへ
個性的という言葉、翻って「うちらマジ変わってる」などという文章が大嫌いである。
人間みな別の生命体であるからして、それぞれが変わっているのは当たり前であるのに、なぜそれを強調して、自虐風自慢を行わなければならないのか。
かつての僕は自分がマジョリティでしかないことを憂い、マイノリティの側に立ちたいと考えていたが、それがどれ程愚かしくまた格好悪いことかと言うのを今日は綴る。
明言しておこう。僕は「凡人」である。
19歳じゃね、自分の個性なんてまだ無いから全然気にすんな
例によって、僕の敬愛するデザイナー山本耀司さんとYMOの高橋さんの対談で山本さんがおっしゃっていたことだ。作家をその後何十年と続けていってようやく個性ってものがでてくる。そのときにカテゴライズされてたらおしまい。と続く。
偏見が混じるが、個性個性と口にする人はたかが二十年程度の人生を生きてなんだか自惚れてしまっている人が多い気がする。なんのクリエイティビティも発揮せず、ただのんべんだらりと生きてきた彼らや、僕のような人間に前述したような意味の個性など、生まれようがない。それはただ「他人と違っていたい」という願望の現れでしかない無意味なものだ。
以前、マツコの知らない世界というテレビ番組で、ホワイトブリーチ特集なるものをやっていた。東京に髪を白くしてくれる美容院があり、そこが若者に人気だそうだ。人間味をなくしたいだとか色々な理由を述べていたが、結局多くの人は誰かと被りたくないと理由が多かった。聞いてあきれる。被りたくないと言っているのにも関わらず、その美容室の中では数いる客の一人にしか過ぎない。
僕も髪の毛を白にしているが、それは人と被りたくないからとかではなく、単純に黒い服しか着ないので、髪が白いと相性がいいからというだけの話だ。
そもそも、特定の誰かではなく、大衆の中の不特定多数の誰かと被りたくないという理由で、着るものや聴くものを選ぶことは、流行っているからという理由で選ぶのと同じくらい格好の悪いことだと僕は思う。
間違いだらけの世界で正しく在ること
僕は髪が白いことや、モード系の服装を好むせいか、個性的であると称されることが多いが、そんなもので個性が得られるとは思っていない。
また、自分の考えを曲げたくなかったり、こうあるべきということをTwitterに日夜書き連ねているからか、「変わっているね」「ひねくれてるね」と言われることが往々にしてあるが、そこにも疑問符をつけたい。
たかが二十数年の人生で得られた価値観に基づいてだが、僕は自分の判断基準の中で、ただ正しく在りたいだけなのだ。間違った行動や矛盾した行動をとりたくない。よって僕がひねくれて居るのならば、それは世間の方が間違っているだけなのだと思っている。もちろん、未だわからないことだらけの人間なので、間違っていることもあるとは思うが。
だから僕は自分が変わっているという驕りを持つまいとしているし、凡人であると考えている。
ただし、人間というのは誰しも自分が特別であると心のどこかでは思っているものだろう。そこで凡人であると自覚している人間は果たして凡人と定義しうるのかと言う問題が発生する。まぁ、これは僕もまだ思考途中であるのでまとまり次第別の記事を書こうと思う。
結局のところ、いくら変人であろうとしたところで、それが自覚的である以上、ちょっと変な行動をとる普通の人にしかなれないし、よしんば無自覚であったとしても、大抵の人は凡人としてその生涯を閉じるだけなのだ。
だから僕は個性という言葉が嫌いだ。
繰り返し言おう。僕は凡人である。