感情の風化と感傷の強化

 感情の風化ってやつが便利だけど怖いなと思った。人間が前向きに生きていく為に予め搭載された最も優れた機能にして欠落点。「忘れる」ということについて、今日は書く。

 

忘却こそが最大の自己防衛だ

 僕は悩みがない。まぁ、悩まないわけではないが、寝れば忘れる。割と細かいことが気になる人間だし、口が悪いというか、意図せずに思ったよりきつい口調になってしまったりして、あー、やったなー。などと思うことはある。でも今さら気にしても仕方がないし、そういう場合は往々にして僕が正しいと思っているので、謝るのもなんだか違う気がするのだ。だから気にしないことにしている。寝れば大概のことは気にならなくなる。そういうものを感情の風化と呼ぶ。忘れるのとは些か違う気もするが、多分脳の仕組みとしては似たようなものだろう。

 便利な機能だ。便利なのだが、それはなにもプラスにだけ働くわけではない。好きな音楽も、嬉しかったことも、好きだった人も、時間が立てばやがてその気持ちが薄れて行く。なにも感じなくなっていく。僕は感情をフラットに保ちたいので、別に嫌だと言うわけではない。

 好きな音楽なら繰り返し聞いて、最初の感動はなくても嫌いになるわけではないし、新しい曲を聞けばまた感動がある。そうやって好きな曲が増えていく。素晴らしいことだ。

 嬉しかったことも、例えば、新しい服を買う、それを着るのが嬉しくて、最初のうちはそればかり着ているが、やがて違う服が欲しくなる。その繰り返しだ。ただ、嬉しさはなくなっても、その服を着たときの身の締まるような感覚までがなくなるわけではない。僕は同じDr.Martensを二年以上履き続けているが、毎回履く度に気分が切り替わる。そういうお気に入りのアイテムが増えていく。素晴らしいことだ。

 好きな人ってのも、まぁ付き合っていればより好きになったり、ちょっと嫌いになったりの繰り返しだと思う。知らんけど。

 

感情的であることと感傷的であること

 しかし、理屈では理解していても、なんだかそれが厭だと思った次第だ。もちろん、ずっと同じ曲しか聴かないなんて勿体ないことだし、別れた恋人のことをずっと好きでい続けるのは、それはそれでロマンチックといえなくもないだろうが気持ちが悪い。

 だからと言ってあれだけ固執していたものに対して感情を揺さぶられなくなることが、少し寂しい、強いて言えばなんだか怖い気がした。

 そこで獲得するものが感傷であるとなんとなく定義した。感情的であったときの、激しさはなくても、一歩引いたところから、客観的、若しくは俯瞰的に過去を想起して、「あぁ、そういうこともあったな」とぼんやりと物思いに耽る。まぁ全部が全部そうなったら親父臭くて厭だけれど、感情と引き換えに感傷を手にいれて、僕らは一歩ずつ進んで行くのだと、思わなくもなかった。