ただ泰然と構えて、紫煙を吐き出すだけの生き物に成りたい

 卒業研究などで、忙しくしていて大幅に更新が途絶えてしまった。いつの間にか退去まであと一月を切っている。

 大分に来て、そろそろ二年になるが、この二年近くは本当に楽しかったし、居心地が良かった。

 ただ、さらば青春の光ではないけど、そろそろ僕もここから抜け出さなくてはと、思うのだ。まぁどうせ東京にいくので、嫌でも縁は切れてしまうのだろうけど。

 寂しくない、と言えば嘘になるけれど、僕は親の仕事の都合上転勤が多かったので、人よりは別れに慣れているつもりだ。

 

居心地のいいコミュニティを保持するのは難しい

 今日は何だかそういうお話。

 僕は大分で凄くいい友人たちに恵まれて、大変ありがたく思っているのだけれど、二年もたてば初めは仲良かった人同士が微妙な空気になってしまったり、憧れていた人のメッキが剥がれたようになんだかつまらないものに見えたり、知りたくない人の一面を知ったり、何より僕がぬるま湯に浸かりすぎてふやけてしまったりで、なんとなく当初の居心地の良さみたいなものは薄れてきた気がする。

 惰性で続く連載漫画のような、スターウォーズの最新三部作のような、ターミネーター3のような、別につまらなくはないのだけど、なんとなくもの足りないような、そんな気持ちになる。

 無論、未だに好きだと思える友達はいるのだけれど、そろそろ潮時なのかなと思う。

 高専の時、学寮ではそうはあまり思わなかったけれど、人間関係の賞味期限は二年程度なのかもしれない。あとは惰性か、余程強固か。まぁ、親友と思えるような人を大分でも見つけられたので、後悔はないし、無駄ではなかったのだろう。

 なんて、格好つけてみてもやっぱり少しは寂しかったりする。

 

理想のない自己肯定はただの怠惰だ

 最近、人と話していて思ったことなのだけれど、維持し続けたい自己の理想像のないままに、自らを律していないままに、「何があっても自分は自分だし関係ないや」と思うのは、ただの甘えのような気がする。

 度々書いているが、僕は自分がダサいと思うことをしたくなくて、自らに何重にも理論武装を施し続けて来た。戒律とでも言えようそれは、自信にも繋がるが、自分の行動を制限する諸刃の剣にもなりうる。

 それを破りたくなくて、格好いいままでいたくて、誰にも悩みを打ち明けれないことがある。それを大好きな後輩に相談したら「多分貴方は一生そうだと思いますよ」と言うようなことを言われた。実に生きにくい業を背負ったものである。

 が、僕はそれを誇りに思っているし、悲劇の主人公を演じるつもりもない。

 

荒野にただ独り佇む男でありたい

 これは多分ヨウジを着るようになってからの僕の心象風景なのだが、風の吹き荒れる灰色の荒野にただ独りで立ち続け、コートをたなびかせ、涼しい顔で煙草を燻らせるモノでありたい。山本耀司さんの理想の女性像に影響を受けているのかもしれないが、孤独ではなく、孤高でありたい。恋愛もしたくないし、無駄な人間関係の形成もしたくない。

 数人の仲間はいるけれど、誰にも頼らず、ただ泰然と紫煙を吐き出す。そんなものになりたい。

 まだ、成れていない。ここ五年間で、身に付けてきた自信や理屈だけではまだ届かない。まだ僕は誰かの助けが必要だし、焼入れをしただけの鋼のように、硬くはあるが脆いものだ。これから、焼戻しをしてしなやかな日本刀の様に成りたい。

 でもまぁ、いまの自分も好きだ。そんな話。