感情に身を任せることは人間的か否か

 感情と理屈が相反したときに、理屈の方が正しいのならそちらに感情を沿わせられるようになりたいといった旨のツイートをしたら、それは人間的じゃなくない? と言われてしまった。一理あるような気がしてよくわからなくなりそうだったので、考えをまとめることにする。

 

本能を理性の制御下に置いてこその人間である

 これは度々このブログでも触れているテーマで、僕が日々いきる上である程度の指針にしていることだ。人間は他の動物とは違うという自意識があるのならば、それ相応の振る舞いをすべきであるという、つまりはノブレス・オブリージュ。高貴なる者には責務が付随してしかるべきだと考えている。

 基本的には僕はそれにしたがって生きているし、感情と自らを律するべく強いたルールが解離することはあまりない。

 ただ、それはそれとして、自らの行動を変化させるほどの感情は伴わなくても、こうありたい。という願望から逸れた種類の感情を抱くことは稀にではあるが、ある。

 それすらも厭だという話。

 

行動は制御可能だが感情は制御不可能

 つまりは嫉妬や羨望、怒りや諦観と言った主にマイナスの感情。そこまでいかなくともなんだかモヤモヤすると言った程度でもいい。勿論然るべきときには抱いて当然の感情であるとおもうし、それ自体を否定することはないし、勿論クリエイション的には大いに肯定していきたい。

 しかし、僕自身が理屈で納得している出来事に対して、心のどこかで「でもなぁ…」という風に思ってしまうのをやめたいのだ。行動に移すわけでもない胸中の蟠り。それを音楽でも服でもに流用出来ればいいのかもしれないが、そもそも持つべきではない感情だと自分が嫌になる。

 本能に基づく行動は制御することは人間として可能でも、本能に付随する感情までは制御出来ない。納得して、前に進んだはずでもたまに立ち止まって反芻してしまう。感情が感傷へと風化するのを待てばいいだけなのだが、そのとき抱いた感情ではなく、反芻している自分自身に嫌気が差す。

 でもまぁ、それが人間であるということなのかもしれない。