なぜ僕らは夕焼けに涙するのか

 と、言うことで一本目の投稿だ。

 なぜ僕らは夕焼けをみるとそこに自分でも説明しようのない巨大な感情を抱くのだろう。
 Twitterで筆舌に尽くしがたい美しい夕焼けの写真を見かけてふと思った。
 それはある種のノスタルジア帰属意識から生まれる正体不明の憧憬、僕らのデオキシリボ核酸に延々と刻まれ続けてきた原風景。多分太古の昔からそこにあり続け、いまも変わらない数少ないものだからだろうか。
 有史以前から、僕らは多分夕景を見つめては、言語化しづらい感傷に浸っていたのかもしれない。
 友達とアイスを食べながら帰ったオレンジ色の通学路、なんとなく独りになりたくなって座り込んだ河川敷、勇気を振り絞った放課後の校舎。
 僕は生憎、一昨年まで独立行政法人国立高等専門学校機構の末席を汚していた人間なので、そんな青春はなかったけれど、やっぱりふと思い出して懐かしいと感じる風景や、想像してみて心揺さぶられる場面は、どうしたって橙に支配されているように思える。
 そこにあるべきは清々しい朝陽でも、清廉なる月光でもなく、やはり夕焼けが相応しいと思うのだ。
 折角なので最近書いていた物から、気に入った比喩表現を抜き出しておこうと思う。

『校舎を後にすると日は既に暮れかけていた。燃えるような深紅から橙色のグラデーションに、京紫の雲が点在している。ステアする前のカシスオレンジのようだと思った』

 完全に自画自賛だが、結構気に入った表現だった。

 なんて、気になって科学的根拠があるかと思ってすこしインターネットを漁ってみたが、あんまり有力な情報を得られなかったので詩的な表現で茶を濁すことにした。もっと明確な答えがあるなら是非教えて欲しいなぁ。